太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)の歴史⑧

さらなる新製品の開発、市場の開拓により一段の飛躍を遂げる

わが国では昭和30年代後半より、霞が関ビルや若戸大橋に代表される高張力鋼(ハイテン鋼)を多量に使用した高層ビルや橋梁の建設が活発化し、少量の添加により引張り強度やじんせい(粘り強さ)を高められるモリブデンやバナジウムの需要が急速に増大していった。

そのような中、太陽鉱工が昭和34(1959)年10月に発売したモリブデン・ブリケットは大きな反響を呼び、業界に大きな地歩を占めることになったが、同社はさらに競争力の高い独自製品の開発に着手した。その結果、誕生したのが新製品モリブデン・クリンカーである。

当時は鉄鋼添加用モリブデンの70%近くがモリブデン・ブリケットで占められていたが、酸化物(粉末状の三酸化モリブデン)での使用が主流となっており、粉末状での添加では飛散ロス、昇華ロスが大きいため、これに粘着剤を加えて円筒型またはタドン状に配合成型することによってこの欠点を補っていた。

モリブデン・クリンカーは、同社の赤穂工場独自の設計により昭和33(1958)年10月に完成した前記の脱硫回転炉(二次焙焼炉)において、脱硫工程中に三酸化モリブデンが焼結する性質に着眼した画期的な製品で、3mm以上の焼結体であるため飛散ロスもなく、速やかに溶融され歩留も良好であった。何よりのメリットは、ブリケットに比べ配合成型工程を必要としないためコストを抑えることができることであった。

昭和37(1962)年、モリブデン・クリンカーの販売を本格的に開始すると、すぐにモリブデン・ブリケットと需要を二分するほどの受注が舞い込み、以後鉄鋼添加用酸化モリブデンの主流が缶入りの酸化モリブデン(モリブデン缶)に移行する昭和50(1975)年までは、同社を支える主力製品となった。

また、同社は昭和29(1954)年のフェロバナジウム生産開始以来、日本電気冶金(現・新日本電工)に次ぐフェロバナジウムメーカーに成長し、昭和34(1959)年度以降は国内のみならず、北朝鮮など海外にも販路を拡大した。

昭和36(1961)年8月、神戸製鋼所の「バナジウム酸化物又はバナジウム含有酸化物型濃縮物を使用して鋼中にバナジウムを添加する方法」に関する特許が確定し、太陽鉱工と神戸製鋼所の間で特許を独占的に使用する契約が締結された。

昭和37(1962)年10月、同社はサン・バナケット(五酸化バナジウム・ブリケット)、引き続いてバナメルト(五酸化バナジウムメルト)の生産を開始した。さらに、昭和30年代後半から電気工業や化学工業の進展に伴い、モリブデン酸アンモニウムやモリブデン酸ナトリウムなどモリブデン酸と称される化成品の需要が増大してきたため、昭和36(1961)年9月にモリブデン酸ソーダ工場を、続いて昭和39(1964)年1月にはモリブデン酸アンモニウム工場を建設し、供給体制を整備した。

一方で、同社は市場の開拓にも注力した。大阪支店は従来よりモリブデン化学製品およびアルミ合金ごうきん、銅母合金(*)等の取扱いが多く、特殊鋼用モリブデンでは住友金属工業(後・新日鉄住金、現・日本製鉄)以外では久保田鉄工(現・クボタ)、神戸鋳鉄所(現・虹技こうぎ)等の鋳物向け小口扱いのモリブデンが多かった。

(*)母合金は合金組成の調整のために添加を目的として造られる合金。溶融金属に他の金属を添加して合金を造るときに、あらかじめ高濃度の合金を造っておき、これを必要量添加すると合金歩留りが安定し目的組成の合金が得られやすい。

そこで、大阪支店(西川栄一支店長)はトヨタ自動車工業のお膝元で、傘下の特殊鋼メーカー・愛知製鋼があり、またわが国最大の特殊鋼メーカーである大同製鋼(現・大同特殊鋼)の知多工場が稼働していた名古屋地区の市場開拓に支店を挙げて注力した。

以後同支店の営業努力によって前記2つの特殊鋼メーカー向けを中心に販売が伸長し、同支店の売上の60%が名古屋地区で占められるようになった。

昭和38(1963)年12月1日、大東だいとう鉱業所におけるモリブデンの生産は昭和34(1959)年から昭和37(1962)年にかけてのピークを過ぎ、山元周辺の鉱床を掘り尽くしたため、同社は新たな鉱山開発に踏み切るべく福岡鉱業所(福岡市大字金隈大府)を開設した。しかし、3年間の探鉱努力にもかかわらず経営に見合う規模の富鉱帯ではないことが判明し昭和42(1967)年、ついに探鉱を中止し、以後は兼営していた採石業務に専念することとなった。

昭和39(1964)年4月、同社は不断の技術革新なくして社業の発展はあり得ない、との考えから独自の研究所として灘研究所(研究所長:樽谷勘三郎、神戸市灘区都通5丁目5)を開設した。研究の目的は同社が扱っている希少金属(レアメタル)全般に関する研究、とりわけ新製品、新技術の開発に置かれた。

その後、同研究所はバナジウム抽出に関する研究をまとめ、伊予工場におけるバナジウムの生産の基礎を築くなど諸研究を進めたが昭和42(1967)年、同社は経済情勢の変化等の理由により同研究所を閉鎖し、新たに赤穂工場に研究部を設け研究員を移籍した。

太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)の歴史⑨

  • モリブデン・クリンカー
  • 福岡鉱業所
  • 灘研究所開所式(昭和39年4月)

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