佐賀紡績(現・ダイワボウホールディングス) ②錦華紡績を経て大和紡績が誕生
九州隋一の規模に発展した大和紡績佐賀工場
佐賀紡績社長・橋本善造は相談役・野口能毅(佐賀市長)とともに武藤山治と再交渉を行い、武藤より鐘紡としては引き受けないが鐘紡の傍系会社「錦華紡績」による引き受けの内諾を得る。同時に台湾銀行より錦華紡績に経営権を譲渡することの承諾を取り付けた。こうして佐賀紡績の資産一切は、錦華紡績が買収、佐賀紡績は解散して旧佐賀紡績は、錦華紡績・佐賀支店として再生した。
昭和16(1941)年、錦華紡績、日出紡織、出雲製織、和歌山紡織の中堅紡績4社が合併して大和紡績が誕生。錦華紡績・佐賀支店(旧佐賀紡績)は、大和紡績・佐賀工場となった。第二次世界大戦後、同佐賀工場は、昭和20年代の最盛期には、2,000人を超える従業員を抱え、戦後日本の復興に果たした役割大として評価された。同工場前のバス通り(国道263号線)は、「紡績通り」と呼ばれ佐賀市民にも馴染みの深い工場であった。
大正5(1916)年創業以来、紡績工場としては九州隋一の規模を誇った大和紡績・佐賀工場は、昭和61(1986)年に閉鎖され70年の歴史の幕を閉じた。かつて紡績業の立地条件として好条件を備えていた佐賀の地は、地理的に東京・大阪の中心市場に遠く流通コストがかさむほか、紡績不況の影響から撤退に追い込まれた。工場跡地は、永く"大和紡績跡地"と呼ばれていたが、平成7(1995)年"どんどんどんの森"公園として生まれ変わった。また、大和紡績は、平成21(2009)年「ダイワボウホールディングス」に商号変更された。また、大和紡績ゆかりの佐賀の地には、系列会社・ダイワボウ情報システム(株)(本社大阪)が第一号支店を開業している。