羽幌炭砿のあゆみ~Ⅵ.エネルギー革命との闘いと閉山(昭和37年~45年)~
ビルド鉱として生き残りをかけるも、エネルギー革命には抗しきれず
昭和35(1960)年に政府が策定した「貿易・為替自由化計画大綱」に基づき昭和37(1962)年10月には、それまで「外貨割当制度」の下で政府による外貨資金の割当てが必須条件とされていた石油の輸入について、同制度の廃止(昭和39年)に先行する形で完全に自由化されることとなった。これにより、エネルギー革命は一気に加速していく。
そして同年、第一次石炭鉱業調査団から政府に提出された「答申大綱」により、石炭産業に対する政府の方針は、それまでの「石油と価格面で競争することを目標とした閉山合理化政策」から「石炭が石油に対抗できないことを認めつつ、石炭鉱業の崩壊がもたらす社会的摩擦の回避等に注目した幅広い政策」へと大きく転換した。
さらに政府は昭和38(1963)年以降、前年に策定した「石炭対策大綱」に基づき、全国の炭鉱を「ビルド鉱」、「現状維持鉱」、「スクラップ鉱」にランク分けし、国策(スクラップ・アンド・ビルド政策)として計画的な生産合理化と閉山に着手した。これに伴い、非能率炭鉱は軒並みスクラップ化が進行し、その一方でビルド鉱として認定されたた優良炭鉱は生き残りをかけ、合理化と規模の拡大に全力を傾注していった。
そしてビルド鉱として認定された羽幌炭砿は、羽幌砿業所を中心とする5カ年計画に基づき、運搬立坑、新選炭工場、排気立坑建設などの各種合理化策を推進していった。羽幌炭砿の社内報である『石炭羽幌』(昭和36年2月1日号)には「油主炭従政策への転換必至」と題し、「もし石炭産業に国の支援がない中で、電力会社に石炭と石油の選択を任せるとしたら、間違いなく石油に切替えるに違いない」旨の記述がなされており、未曾有の危機に直面していた様子がうかがえる。
羽幌本坑の新選炭工場・貯炭場(ホッパー)は3.7億円を投じ、昭和37(1962)年の夏ごろ完成。運搬立坑は17億円を投じ、昭和40(1965)年6月に完成。いずれも最先端技術を結集し、羽幌本坑の心臓部として稼働することが予定された施設であった。
しかし、築別炭砿では昭和39(1964)年から翌昭和40(1965)年にかけて、断層への突入や炭層下盤の泥土水の存在が明らかになり、炭質の悪化に伴う歩留まりの低下が進行。加えて羽幌本坑の運搬立坑の完成が一年以上遅延したことから築別炭砿の減産分をカバーできず、昭和39年度下期には赤字に陥る。
この頃から離山者が増加しだし、ついに会社は昭和40(1965)年4月11日、機構改革、役員減員、給与据置き・体育部の休止を含む経費削減、生産の合理化の4本柱からなる合理化策を発表する。体育部に関しては、経費削減策の中に「体育部の休止、再開の時期は明言できず」という項目が盛り込まれたため、スポーツ関連部のすべては解散を余儀なくされた。
その後、羽幌本坑は運搬立坑の本格稼働に伴い底力を発揮し出す。昭和41年(1966)年8月には上羽幌坑において「ホーベル採炭」を、昭和43(1968)年10月には羽幌本坑において「自走枠・ホーベル採炭」を開始するなど、会社はいささかも合理化の手を緩めることはなかった。離山者が増加する中これらの成果が結実し、羽幌炭砿は昭和40年度の出炭量が2度目の100万㌧超えを達成すると、昭和41年度、42年度、43年度(過去最高の113.3万㌧)と連続して100万㌧超えを達成し、道内はもとより全国石炭業界注視の的となる。
社内報『石炭羽幌』(昭和43年4月1日号)には「羽幌は折紙付きのビルド山」と題し、町田社長の「羽幌炭砿は今後も十分やっていける」旨の言葉が掲載されたが、昭和39(1964)年から3億円を投じて進めてきた築別炭砿「ベルト大斜坑」掘削工事の断念、築別炭砿東坑に替わるべき西坑の開発断念という困難が続き、昭和44(1969)年4月頃から出炭量が急減。
事ここに至っては、襲いかかるエネルギー革命の荒波には抗し難く、羽幌炭砿の労使は国の「石炭鉱山整理特別交付金制度」(「企業ぐるみ閉山制度」)適用による閉山を選択。そして羽幌炭砿はついに昭和45(1970)年11月2日、閉山を迎える。この突然訪れた青天の霹靂ともいうべき閉山により、1万人を超える炭鉱の住人は、突然長年慣れ親しんだ街・我が家を断腸の思いで立ち去らざるを得なくなり、つらく悲しい別れとなった。昭和15(1940)年2月の築別炭砿開坑から数えて30年余りの輝きであった。