羽幌炭砿にまつわる話シリーズ①「炭鉱の人々の暮らしぶり」

昭和35年頃には都会と変わらない住環境が整う

昭和15年(1940)年2月に築別炭砿が開坑し、羽幌炭砿はその歩みを始めたが、空知(そらち)炭田などと比べて立地条件が悪く、あまりにも山奥であることに驚いて一日か二日でヤマを去って行く人も多かったという。

創業当初、人々の生活はないないづくしであった。食料事情は悪く、荒地を耕して芋などを作っていた。米の配給所もないので、歩いて羽幌の町まで買いに行くこともあった。浴場は露天の五右衛門風呂であった。

同年4月5日、築別炭砿の末広町に初めての社宅として鉱員用の六戸一棟長屋19棟が完成。その後、鉱員用、職員用、鉄道従業員用の社宅が次々に完成し、人々の炭鉱での暮らしが本格的にスタートした。

昭和16(1941)年11月、ようやく社宅に電灯がともる。飲み水はまだ井戸水ではなく沢水で、泥を沈殿させて使用していた。とりわけ人々を悩ませていたのがぬかるみ道で、雨が降ると中心部の「辰巳橋」付近ですら通学中の小中学生が泥に足をとられ難渋するほどであった。当時、娯楽施設と呼べるようなものはなく、機関庫で放映される映画を地面にムシロを敷いて見るくらいが精々であった。

昭和25(1950)年に築別炭砿で起こった長期ストライキの終結を機に、羽幌炭砿は労使一体となって炭鉱の発展につとめた結果、出炭量が上昇曲線を描き始める。それとともに住居、文教施設、体育施設などの福利厚生面も徐々に充実していった。

昭和27(1952)年10月、三山(築別炭砿、羽幌本坑、上羽幌坑)には娯楽・文化の殿堂といわれた「築炭会館」、「本坑会館」、「二坑会館」が完成し、宝塚歌劇団、文学座、有名歌手らも来山するようになる。さらに野球場、テニスコート、プール、スキーのジャンプ台、ゲレンデなどの体育施設も完成し、映画、観劇、音楽、スポーツ、趣味・文化サークル活動などが楽しめるようになった。

築別炭砿の大山祇(おおやまづみ)神社(「(ちく)(たん)神社」とも呼ばれた)では毎年6月11日から13日にかけて「山神祭」が催され、これにあわせて太陽中学校の運動会も開催された。11日の夜宮から12日の子供御神輿、13日の後祭りの後の運動会まで子供から大人まで楽しい3日間を過ごした。

昭和15(1940)年12月に開校した太陽小学校(開校当時は太陽尋常高等小学校)は、末広町にあった太陽産業の社宅(六戸一棟長屋)の一部を借用して校舎としたが、屋根だけで壁はなく地面に木板を敷いてつないだだけの極めて厳しい環境であった。昭和20(1945)年9月、ようやく岡町に8教室のほか屋内運動場などを備えた校舎が完成する。昭和35(1960)年当時の全校生徒数は1,065名で留萌管内で1、2を争う大規模校となり、体育館、グラウンド、図書室、保健室なども完備し設備の面では都会の学校に決して劣るものではなかった。

昭和32(1957)年になると会社は幼児教育の充実をはかるべく、三山にそれぞれ保育園を開設した。昭和34(1959)年には幼稚園となり、教育内容、設備ともに充実したものとなった。これらはすべて会社の福利厚生事業として運営されたため、入園料・保育料などの保護者の負担はなかった。子供用の遊園地も築別炭砿に3カ所、羽幌本坑、上羽幌坑にそれぞれ1カ所完成する。

羽幌炭砿創立20周年を迎えた昭和35(1960)年頃には、ヤマには都会に勝るとも劣らない明るく住みよい環境が整った。当時、食料、衣料、生活用品などは三山の生活協同組合と会社直轄の配給所(昭和38年に会社直系の大五百貨店となる)で人々はいつでも都会と同じ物を購入することができた。

昭和30年代後半には炭鉱住宅の屋根が七色に塗装され、来山者の目を見張らせた。「七色の炭鉱」、「積木細工のような住宅」とは羽幌炭砿を訪れた歌手のペーギー葉山一行の言葉である。

最後に、三山全体の人口の推移を見ると、昭和25(1950)年10月の5,308人に対し、昭和30(1955)年10月には8,096人、昭和40(1965)年10月には12,456人にまで増加しており、この数字から見ても羽幌炭砿がいかに昭和20年代後半から急激な発展を遂げたかが窺えよう。

※羽幌炭砿の三山が所在した羽幌町の人口は昭和28(1953)年に2万人を、昭和39(1964)年に3万人を超えたが、炭鉱地区の人口がいかに大きなウエートを占めていたかが分かる。

羽幌炭砿にまつわる話シリーズ②「築別炭砿の労働争議」

  • 築別炭砿の街並み(昭和30年代)
  • 築別炭砿第一配給所の店内(昭和35年頃)
  • 大山祇神社(築炭神社)の「山神祭」(昭和35年頃)

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