羽幌炭砿にまつわる話シリーズ③「高松宮殿下ご夫妻のご来山」
羽幌炭砿にとって創業以来最大の栄誉
昭和30(1955)年に入り景気回復の兆しが見え、この年はいわゆる神武景気が本格的にスタートした年となる。しかし、石炭業界には石油と海外炭の圧力が年々重くのしかかり、決して手放しでは喜べない状況にあった。
こうした中、羽幌炭砿は昭和26(1951)年以降労使一体となり築別炭砿を中心に推進してきた合理化が実を結び、昭和31(1956)年度の出炭量は創業時には到底不可能と考えられていた50万トンを超える金字塔を打ち立てた。
躍進で明けた昭和32(1957)年、その躍進を象徴する大慶事が実現した。それは、高松宮殿下ご夫妻のご来山である。当時、朔北の一中小炭鉱に宮様がお越しになろうとは誰一人として考えもしなかったが、それが現実のものになったのである。
きっかけは、同年3月に羽幌炭砿主催の築炭シャンッェ・ゲレンデで開催された「第一回道北沿岸スキー大会」である。この大会がヤマ全体にスキー熱を沸かせ、2年後には羽幌炭砿スキー部のジャンプ陣が「羽幌飛行隊」の名声を全国に轟かせることになるのであるが、この時臨席していた秋野武夫北海道スキー連盟会長らの懇請により「スキーの宮」で名高い高松宮殿下ご夫婦のご来山が実現したのである。
同年7月22日快晴の空を全山の人々が見守る中、ご夫妻は視察を終えられた焼尻島からヘリコプターで金子町の築炭グラウンドに到着された。この時、ヤマの人々から一斉に万歳の声が沸き上がったという。宮様の服装はグレーに縞模様の背広、パナマ帽に茶色の靴、妃殿下の方はグレーのスーツに透き通るような白色の帽子、靴もハンドバッグも純白であった。
ヘリから降りられたご夫妻は町田叡光社長が先導し、会社クラブ(築炭上クラブ)に向かわれたが、グラウンドからクラブ下までの沿道を埋めた人々に会釈される様子からはいささかの疲れも感じられなかった。その後、クラブの特別室で町田社長以下各役員から歓迎の言葉を受けられ、午5時頃、町田社長、小川勝次日本スキー連盟会長らとともに坑内へと向かわれた。当初はベルト斜坑までという予定であったが、宮様のご希望で第一線も一線、炭塵の舞う最深部の左四片ロングまで向かわれ、約1時間半のご視察を終えられた。随員の一行がバテ気味であったのとは対照的に宮様はすこぶるお元気であったという。
その後、「殉公碑」(*)のある高台まで上がられ、町田社長から坑外施設全般の説明を受けられた後、会社スキー部のジャンプ選手、笠谷昌生(札幌オリンピック70m級ジャンプ金メダリスト・笠谷幸生の実兄)らの介添えで植樹をされた。こうして全山大歓迎の中、クラブでご一泊になり、翌日従業員を励まされた後、日の丸の旗で埋め尽くされた道路を車でヤマを後にされた。
(*)羽幌炭砿では炭鉱の事故による殉職者と戦場で亡くなった従業員の霊を慰めるため、毎年9月の第3日曜日に殉公碑前あるいは築炭会館において「殉公祭」(慰霊祭)が執り行われた。なお、「殉公碑」は閉山後の昭和52(1977)年5月1日に、「羽幌会」(元羽幌炭砿の有志と協力賛同者により構成)の手によって羽幌霊園に移設された。