羽幌炭砿にまつわる話シリーズ⑥「羽幌炭砿スキー部」
日本中にその名を馳せた「羽幌飛行隊」
羽幌炭砿は昭和25(1950)年の1カ月にわたる長期スト終結以降、労使一体となり築別炭砿を中心に推進してきた合理化が実を結び、昭和31(1956)年度の出炭量は創業時には到底不可能と考えられていた50万㌧を超える金字塔を打ち立てた。
昭和32(1957)年は羽幌炭砿にとって生産の面だけでなく、スポーツの面でも「大飛躍」に向けて大きく一歩を踏み出した年であった。同年3月10日、築別炭砿で行なわれた「第一回道北沿岸招待スキー大会」を契機に、冬季スポーツの華・純飛躍(ジャンプ)でインカレ優勝の笠谷昌生(札幌オリンピック70m級ジャンプ金メダリスト・笠谷幸生の実兄)が羽幌炭砿に入社。笠谷選手だけでなくインターハイの上位入賞者も次々に入社し、後に「羽幌飛行隊」として、テレビや新聞を通じて日本中にその名を馳せる基礎が確立した。
この頃からヤマ全体にスキー選手が育つ土壌が培われ、特に将来の笠谷選手を目指す子供達が目立って増え、住宅街の裏山のあちこちにチビッ子達が自分で作ったミニジャンプ台で飛んでいる風景が冬季を通じて見られた。会社も従業員や子供たちの熱意に応えるべく、昭和32(1957)年12月にはスキー部が日本スキー連盟に加入したのを機に、総工費120万円をもって北海道スキー連盟公認の「築炭シャンツェ」(50m級)を、昭和33(1958)年11月には全長400m、幅35mのゲレンデを完成させた。
昭和34(1959)年にはゲレンデを150m伸長し、ヒュッテを設け夜間照明も設置した。さらに滑降コース、回転コース、少年用の30mジャンプ台も併設し、留萌管内一のスキー場となる。昭和33(1958)年、34(1959)年には築炭シャンツェ・ゲレンデで昭和35(1960)年開催のスコーバレー冬季オリンピックを目指す強化合宿が行われ、築別炭砿の街はスキーのメッカに相応しい賑わいを呈した。秋野武夫北海道スキー連盟会長は、雪質も良く宿泊施設が整えば国体も可能であるとのコメントを残している。
スキー部はジャンプだけでなく複合、滑降、回転、距離にも選手の輪が広がり、選手層も厚みが増し、「宮様スキー大会」をはじめとする全国のスキー大会において常にトップクラスの成績を収めた。そして昭和39(1964)年開催のインスブルック冬季オリンピックの出場候補選手および強化選手に羽幌炭砿スキー部から6名が選出され、昭和37年、38年には築炭シャンツェ・ゲレンデで同オリンピックを目指す強化合が行われた。
そんな中、昭和39(1964)年から翌昭和40(1965)年にかけて、築別炭砿において断層への突入や炭層下盤の泥土水の存在が明らかになり、会社は昭和40(1965)年4月11、築別・羽幌両砿業所の一本化を中心とする機構改革、役員減員、体育部の休止を含む経費削減、生産の合理化の4本柱からなる合理化策を発表した。
経費削減策の中に「体育部の休止、再開の時期は明言できず。」という項目が盛り込まれたため、スキー部をはじめスポーツ関連部のすべては解散を余儀なくされた。スキー部解散後も昭和42(1967)年まで、築炭シャンツェでオリンピック強化合宿が続けられたが、ヤマの人々が一流ジャンパーの豪快なジャンプを見ることができたのはこれが最後であった。