羽幌炭砿にまつわる話シリーズ⑦「羽幌炭砿野球部」

都市対抗野球大会に北海道代表として2回の出場を果たす

羽幌炭砿は昭和30年代に入り出炭量が上昇軌道を描きだすに従って、スポーツや各種文化活動が一斉に開花しその輪が大きくなっていった。

会社は昭和31(1956)年12月に軟式であった野球部を硬式とし、直後に「羽幌炭砿チーム」の名称で日本社会人野球連盟に加盟。昭和33(1958)年春、硬式野球部の活動が本格的にスタートしたが、メンバーには同年入社した元プロ野球選手や大学・高校卒業の有力選手も名前を連ね、監督は内野手兼任の元プロ野球選手であった。

チームは結成1年目にして都市対抗野球大会旭川地区予選において優勝し北海道大会へ進出する偉業を成しとげたが、同大会では初戦に強豪の富士鉄室蘭と対戦し惜敗した。

しかし、翌昭和34(1959)年はさらなる有力選手の入社により戦力が強化された羽幌炭砿チームは再び地区予選を勝ち抜いて北海道大会に進出し同大会では決勝で王子に敗れるものの準優勝に輝き、2年目にして第30回都市対抗野球大会に北海道代表として後楽園球場の晴れの舞台に立った。

この大会は初戦敗退(1-3)ではあったが対戦相手は大会連続10回出場の強豪、東洋レーヨン(大津市)で、試合内容はほぼ互角の善戦を繰り広げたことで新聞各紙も「善戦」「惜しい」の文字を列ねた。

一方で遠路羽幌町から駆けつけた応援団の応援も立派であった。誰もが後楽園球場に応援に来ようとは考えもしなかったため準備万端とはいかず、熊まつりの踊り、メノコ(アイヌ語で「女性」の意)のソーラン節踊りも大会出場が決まってからのにわか仕立て。ソーラン節の歌詞は嶋内義治常務が即席で作り上げたものであった。しかし、その応援風景は当日随一の見ごたえのあるものとなり、終始2万人の観衆の注目を集め、野球部の活躍と相まって羽幌炭砿の宣伝にも大いに貢献した。

その後昭和38(1963)年、第34回都市対抗野球大会にも北海道代表として2回目の出場を果たしたが、またしても初戦の相手が優勝候補筆頭の全鐘紡(大阪市)で、4回まで5-0でリードするも武運つたなく5-7で惜敗した。

そんな中、会社は昭和40(1965)年4月11日、築別・羽幌両砿業所の一本化を中心とする機構改革、役員減員、体育部の休止を含む経費削減、生産の合理化の4本柱からなる合理化策を発表した。これに伴い、野球部をはじめスポーツ関連部のすべてが解散を余儀なくされた。その後野球部は名称を「羽幌クラブ」と改称し、しばらくの間、野球への情熱を断ち切れなかった部員のみで活動を続けた。

羽幌炭砿にまつわる話シリーズ⑧「羽幌炭砿バレーボール部」

  • 第30回都市対抗野球大会(於:後楽園球場)に出場(平成34年7月)
  • 第30回都市対抗野球大会[ナイターでの東洋レーヨンとの試合](平成34年7月)
  • 第30回都市対抗野球大会での羽幌炭砿応援団の横断幕(平成34年7月)

TOP