羽幌炭砿にまつわる話シリーズ⑧「羽幌炭砿バレーボール部」
男女とも全国大会出場クラスの実力を誇る
羽幌炭砿男子バレーボール部の結成はかなり古く、昭和25(1950)年3月発行の「築炭ュース」(羽幌炭砿の社内報)に「バレー部合宿練習」の記事が掲載されている。
男子バレーボール部は昭和26(1951)年7月10日に行われた「労働文化祭バレーボール大会」の留萌地区予選で優勝し、北海道大会でも優勝候補の全道庁を破り全国大会に出場。この頃、地区あるいは北海道内で行われた名のある大会では必ず決勝まで進み「全国工場鉱山北海道大会」では連続して優勝を飾っていた。
しかし、日本4強の一つに挙げられていた富士鉄室蘭には歯が立たなかった。そこで昭和33(1958)年以降、有力選手を採用し補強をはかった。同年に行われた「第7回全日本都市対抗バレーボール優勝大会」の北海道予選では決勝まで進むも、宿敵富士鉄室蘭に敗北。しかし、同年5月31日、6月1日に行われた「全道バレーボール地区対抗選手権」では決勝で旭鉄(旭川鉄道管理局)を破って初優勝している。
昭和34(1959)年に入ると5カ年計画をたて、目標をあくまでも打倒富士鉄室蘭に置いた。すなわち北海道内トップの座に狙いを定めたのである。しかし、同年4月に行われた「第8回全日本都市対抗バレーボール優勝大会」の北海道予選の決勝では、またしても富士鉄室蘭に苦杯を喫する。一方、9人制バレーボールでは昭和33年(1958)に行われた「第11回全日本9人制バレーボール実業団選手権」の北海道予選で優勝し、全国大会に出場している。
この頃、富士鉄室蘭の壁は厚かったものの、羽幌炭砿男子バレーボール部は全国大会出場クラスの実力を備えたチームに成長していた。
一方、女子バレーボール部の結成時期は定かではないが、男子と同時期と思われる。初めは愛好家によるリクレーション程度のレベルであったが昭和33(1958)年、当時道内高校女子バレーでは実力随一の斜里高校から有力選手を採用し補強をはかった。
その結果「全日本都市対抗バレーボール優勝大会」では、昭和35(1960)年の第9回大会から昭和37(1962)の第11回大会まで3年連続で北海道予選を突破し、全国大会に出場する。
昭和36(1961)年には「第16回国体」(秋田)および「第13回全日本9人制バレーボール実業団選手権」の北海道予選でも優勝し、いずれも全国大会出場を果たしている。国体出場は、昭和39(1964)年までの間に3回を数える。この頃、女子バレーボール部は「北海道内では無敵」を誇るようになっていた。
そんな中、会社は昭和40(1965)年4月11、築別・羽幌両砿業所の一本化を中心とする機構改革、役員減員、体育部の休止を含む経費削減、生産の合理化の4本柱からなる合理化策を発表した。これに伴い、他のスポーツ関連部とともにバレーボール部も解散を余儀なくされた。