松方コレクションと鈴木商店(その1)
松方コレクションは、実業家松方幸次郎が大正初期から昭和初期(1910年代から1920年代)にかけて収集した美術品コレクションである。
松方幸次郎(慶応元(1866)年~昭和25(1950)年) は、明治の元勲で総理大臣も務めた松方正義の三男。旧制一高の前身である大学予備門から米エール大学に留学して、法律の博士号を取得し、ヨーロッパ遊学を経て帰国。父親の秘書官などを務めた後、神戸の川崎造船所の創業者である川崎正蔵に請われ、明治29(1896)年、株式会社川崎造船所の初代社長に就任した。一時は神戸新聞、神戸瓦斯などの社長も兼ね、神戸商業会議所の会頭や衆議院議員も務めた。
松方幸次郎が美術品の収集を始めたのは、第一次大戦中のロンドン滞在時のこと。自社(川崎造船所)の貨物船の売り込みと鉄材等資材の買付のため大正5(1916)年3月から大正7(1918)年7月までロンドン長期滞在に当たって、鈴木商店の金子直吉の指示によりロンドン支店長・高畑誠一は同店内に松方の専用室を用意したほか収集資金の立替えの便宜をも図った。
大戦により造船で多大な利益を上げた松方は、大正5(1916)年から約10年の間にロンドンを拠点にたびたびヨーロッパを訪れては画廊に足を運び、絵画、彫刻から家具やタペストリーまで、膨大な数の美術品を買い集めた。パリの宝石商アンリ・ヴェヴェールから買い受けた浮世絵コレクション約8千点(現在は東京国立博物館が所蔵)を含め、彼が手に入れた作品の総数は1万点におよぶと言われる。しかし、松方が美術にこれほどの情熱を傾けたのは、自らの趣味のためではなかったと云われる。彼は自分の手で日本に美術館をつくり、若い画家たちに本物の西洋美術を見せてやろうという明治人らしい気概をもって、作品の収集にあたっていた。
松方は購入した作品を持ち帰り、美術館を建てて公開する準備をしていた。その美術館は「共楽美術館」と名づけられ、松方が敬愛する友人で美術品収集の助言者でもあったイギリスの画家、フランク・ブラングィン(1867-1956)が設計案を作り、東京の麻布に用地も確保された。しかし、松方の夢だった「共楽美術館」が日の目を見ることはなかった。昭和2(1927)年の経済恐慌が状況を一変させた。メインバンクの十五銀行の休業によって川崎造船も経営危機に陥り、松方は社長の座を降りて自らの財産を会社の財務整理に充てた。日本に運ばれていた美術品は数度にわたる展覧会で売りに出され、散逸してしまった。
松方が収集した美術品のうち、かなりの数がヨーロッパに残されていたが、ロンドンの倉庫にあった作品群は昭和14(1939)年の火災で失われ、現在ではその内容や数さえも確かではない。一方、パリに残された約400点の作品は、リュクサンブール美術館(当時のフランス現代美術館)の館長レオンス・べネディットに預けられ、彼が館長を兼任したロダン美術館の一角に保管されていた。この作品群は第二次大戦の末期に敵国人財産としてフランス政府の管理下に置かれ、昭和26(1951)年、サンフランシスコ平和条約によってフランスの国有財産となった。しかしその後、フランス政府は日仏友好のためにその大部分を「松方コレクション」として日本に寄贈返還することを決定した。このコレクションを受け入れて展示するための美術館として、仏建築家・ル・コルビュジェの基本設計により昭和34(1959)年、誕生したのが「国立西洋美術館」である。