東京
政界への指令基地、東京ステーションホテル
東京ステーションホテルが開業したのは大正4(1915年)、鈴木商店の金子直吉が第一次世界大戦を機に大投機を仕掛けた翌年である。鈴木商店は、金子直吉の東京指令基地とするため、翌年から破綻迄の12年の間、同ホテルの20号室を借り切る。金子は同ホテルを拠点に後藤新平、浜口雄幸、片岡直温、井上準之助ら政治家との折衝を行う。また米・モリス大使との船鉄交換条約の交渉のため、米国大使館に向かう際にも同ホテルから出発したと思われる。
東京ステーションホテルとは別に、丸の内の三菱ビルに鈴木商店東京支店が、また海上ビルには東京事務所があった。日粉問題の際には、それぞれのオフィスと東京ステーションホテルを結び、長崎英造、窪田駒吉らが特別融資を得るために奔走した。
グランドプリンスホテル高輪内にある旧竹田宮邸は、明治45(1912)年に、「お家さん」こと鈴木よねが、恒久王妃昌子との謁見を賜った場所である。
関東大震災の際、鈴木商店は材木百万円分を寄付、神戸から自社船で救援物資を届けている。そして大工を送り込み、永代橋をはじめ即成架橋建設に協力した。
金子は、財界の大御所渋沢栄一に、王子・飛鳥山にある渋沢邸に招かれている。金子は大日本製糖の社長就任を要請されるも、鈴木が大日本製糖の大口債権者であることからあっさりと断ってしまう。渋沢栄一は金子を「事業家としては天才だ」と高い評価を与えている。
上野の国立西洋美術館は、鈴木商店の高畑誠一が収集に協力した松方コレクションを受け入れるために設立された美術館である。
王子には硬化油の製造を目的とした鈴木商店製油所王子工場跡(後の合同油脂、現在の日油)があり、そして芝浦には、鈴木商店破たん後に、旧鈴木商店鉄材部の人たちの親睦会の話題から発展して設立された日本発条の創業の地がある。