「お家さんの日記が語る【鈴木商店焼打ち事件】が発生した日」をご紹介します。

2024.8.12.

 スクリーンショット (241).jpg焼打ち.jpg今から106年前の大正7(1918)年7月、富山に端を発した米騒動の火の粉は全国に飛び火し、同年8年12日夜、鈴木商店躍進の象徴であった神戸東川崎町の本店(旧みかどホテル)は、暴徒により焼打ちされ灰燼と化した。

 旧みかどホテルは、建築家・河合浩蔵の設計による木造3階建てコロニアル風の建築で、後藤回漕店・後藤勝造が経営するホテル。業容拡大する鈴木商店は、大正5(1916)年後藤勝造より同ホテルを買収して、新本社屋とし焼打ちによる消失まで鈴木商店飛躍の舞台となっていた。

 鈴木商店焼打ち事件当日のお家さん・鈴木よねとその家族の様子がよねの日記「日用ひかえ」に綴られている。同"日用ひかえ"は、明治45(1912)年元日より大正13(1924)年12月29日まで日々の出来事を記録した日記帳で、大正7(1918)年8月12日の箇所は、次のように記述されている。

 「大正7年8月12日夜 臨時災難にて本店火災する事

其の夜 家内岩治郎、岩蔵二人残りて皆塩屋に行く

岩治郎、よね、千代子、鳥取迄、岩蔵、やす子(は)、子供・貞子、英子、治雄連れて宮島まで行き9月2日に帰宅する。」

この事件当時、鈴木よね66歳、(二代目)岩治郎40歳、岩蔵34歳、ちよ(千代子、岩治郎長女)17歳、貞子(岩蔵次女)3歳、英子(岩蔵長女)5歳、治雄(岩蔵長男)6か月であった。

 "鈴木商店焼打ち事件"を描いた作家・城山三郎のノン・フィクション小説「鼠」のプロローグに事件当日のよねと家族の様子が詳細に記されている。

 ・大正7年8月12日朝、鈴木よねはいつもと変わらず須磨の邸を出て、日課となった庭から切った花束を持って店(東川崎町)に顔を出した後、盆のための墓参り(追谷墓園)をし、夜は市内栄町の旧宅(栄町4丁目の創業地)に泊まると言い置いて出て行った。

 ・夜に入って、塩屋の家では、女二人(岩治郎妻トミと長女ちよだろうか?)が留守居していた。

 ・夜半、しきりに戸をたたく音がした。やって来たのは、よねであった。焼打ちの事実を知らされた。

 ・警察からのすすめもあって、よねは次の日の夕方、教師上がりの老社員(西川玉之助か?)ひとりに伴われて姫路から鳥取県下へ抜けた。

 ・岩蔵の妻(やす子)は、5歳(長女英子)、3歳(次女貞子)、6か月(長男治雄)と三人の子を抱え、出入りの屈強な漁師に守られ、舞子に出、直吉の妻(徳)と合流して、宮島へ。

 こうして一家散り散りの3週間ほどの避難の様子が日記帳「日用ひかえ」に淡々と記されている。

関連資料

関連リンク

TOP