佐賀
江戸後期には佐賀錦を生んだ鍋島藩の城下町として栄えた旧肥前国
律令制下の肥前国に属していた佐賀の地は、江戸時代初期の慶長13(1608)年、戦国時代の領主・龍造寺氏の重臣であった鍋島直茂が藩主の座に就き、以後は廃藩置県まで鍋島氏が統治する佐賀藩の本拠地となり、佐賀城が築城された。水運と農業中心の小さな町だった現在の佐賀市街付近は、佐賀城築城後に佐賀藩本藩の城下町として発展し、商工業が大きく発達した。江戸末期には、独特の織り方で知られる鹿島錦(後に佐賀錦と呼ばれる)が生まれる等文化の華が開いた。
第10代藩主・鍋島直正の幕末維新の時代、佐賀は輝きの時代を迎えた。西洋の文化、技術に目を向け、日本の近代化を牽引した。西洋医学の導入、我が国初の鉄製大砲鋳造、佐賀藩の理化学研究所、蒸気船の建造等々、まさに名実ともに時代の先端を歩んでいた。
佐賀中心部は、明治時代、佐賀県の併廃とともに佐賀県、伊万里県、佐賀県、三潴県、長崎県、と変わり、最後には佐賀県が分離されてその県域に入った。明治22(1889)年の市制施行時の市域は現在の市中心部の一部だったが、昭和の大合併により旧佐賀市、平成の大合併により現在の佐賀市の市域となった。これにより市域は福岡県境へと拡大した。
明治時代には殖産興業の一環として杵島や唐津一帯の炭鉱では機械の導入による増産が進められ、鉄道の建設がそれを後押しした。
大正5(1916)年には佐賀市に「佐賀紡績」(後の大和紡績佐賀工場)が誕生、大正9(1920)年には従業員1,500人の工場へと拡大するなど、近代化により製造業が発展した。さらに佐賀、久留米を結ぶ軽便鉄道「肥筑軌道」等の鉄道計画が進められた。
現在の県内の地域区分は、佐賀藩と唐津藩に二分されていた歴史的経緯から、唐津市を中心とした北部(北西部)と佐賀市を中心とした南部(南東部)に分かれる。