台湾(北部)

宜蘭は“台湾のユートピア”と呼ばれた観光地としても知られる

―写真は宜蘭・蘭陽渓の夕日(出典:ウィキペディア・コモンズ Yilan Country Montage.png)

「基隆」は、台湾北部の旧省轄市で、台湾一の輸出入取扱い額を誇る基隆港を抱える。台湾原住民ケタガラン族の名前に由来する基隆は、17世紀以降、スペイン、オランダによる領有、鄭成功による台湾解放、清国による支配、日本統治など時代の波に翻弄される歴史が続いた。現在では、台北の外港として、また衛星都市として発展している。

「宜蘭県」は、台湾北東部に位置し、古くは台湾原住民クバラン族の居住地。三方を山岳に囲まれた蘭陽平野が広がり、肥沃な土壌から農業が盛んである。気候は多雨、特に冬期には数か月にわたり雨が続くこともある。県の人口は約46万人、宜蘭市、羅東鎮に集中している。県政府所在地は、宜蘭市(県轄市)、1市3鎮8郷より成る。

「宜蘭市」は、宜蘭県北部、蘭陽平野の中央に位置する。日本統治時代、10度にわたる行政改革がなされ、1940年に宜蘭市が誕生した。戦後、国民政府によっても度々、行政改革が行われ1950年、宜蘭県が成立。

近年、台北と宜蘭を結ぶ北宜高速道路の雪山トンネルが開通し、台北市内と30分で結ばれ観光地としても注目される。台北に隣接する秘境として宜蘭は、“台湾のユートピア”とも呼ばれ、礁渓温泉ほか観光スポットも数多くある。

鈴木商店ゆかりの足跡は、宜蘭県羅東鎮(宜蘭殖産)、三星郷(蘭陽発電所)、宜蘭市(宜蘭設治記念館)に残された。また、基隆は鈴木が製糖工場建設を断念した場所であり、九州・大里での製糖所建設、宜蘭殖産による製糖事業に繋がったゆかりの地でもある。

1. 基隆と鈴木商店

内地からの玄関口基隆港は、領台の明治28(1895)年でも台湾第一の良港とされたが、港内が狭く、水深も浅かったため、当初は1000t級以上の船は接岸できなかった。それに年間を通じて天候は不順であり、荷役作業は困難を極めた。後藤新平の建議で始まった築港事業により、明治36(1903)年には第一期工事が完了し、3000t級の船が接岸できるようになった。

後藤新平の勧めで、金子直吉は基隆に精糖工場を建設する計画を立てたことがあったが、議会の理解が得られず頓挫。このことが大里製糖所設立へとつながって、鈴木商店の砂糖事業を大きく成長させてゆくことになる。基隆には出張所がおかれ、台北支店が管轄した。

  • 領台当時の基隆港

2. 宜蘭と鈴木商店

鈴木商店と宜蘭との縁は深い。明治34(1901)年に2代目岩治郎が宜蘭で官営製脳を請け負い、その後、小松楠彌や波江野吉太郎ら鈴木商店ゆかりの事業家が合流し、宜蘭山麓で大規模な製脳事業を行った。明治36(1903)年には小松、波江野が中心となって台湾製脳合名会社を設立している。

地元資本による製糖工場を買収し、大正4(1915)年に設立されたのが宜蘭殖産である。当初は鈴木商店直営の計画であったが、方針を改め、前出の小松、波江野に、鈴木商店から金子直吉、辻湊、平高寅太郎、後藤組からは川合良男が加わって共同出資会社となった。製糖のほか、電灯、軽便鉄道、製氷、林業、土地開発に従事したが、やがて製糖部門を台南製糖に売却すると、これを契機に波江野は同社の取締役に就任し、以後台南製糖の製品販売は鈴木商店が扱うこととなった。

宜蘭県三星郷にある「蘭陽発電廠」は、もともと明治42(1909)年設立の宜蘭電気が建設したものである。大正2(1913)年に送電開始、同時に近隣の村々に豊かな灌漑用水を供給した。社長に小松、取締役に波江野、辻ら鈴木商店関係者が就任している。発電所内の発電機は東芝製でいまなお現役で活躍して、宜蘭の人々に電力を供給し、田畑を潤している。

宜蘭庁長を務めた小松吉久は大正9(1920)年退官後、鈴木商店系列の日本拓殖取締役、台湾炭業社長、朝日製糖社長に就任した。鈴木商店が台湾の地方行政に深く関与していたことをうかがわせる事例である。当時の宜蘭庁長公邸が、現在宜蘭設治紀念館として一般公開されている。

  • 宜蘭殖産株式会社
  • 蘭陽発電所(全景)
  • 宜蘭設治紀念館

関連リンク

TOP