神戸(周辺部)

鈴木商店絶頂期の面影を感じるゆかりの地

神戸旧居留地周辺を訪れると、鈴木商店ゆかりの地が多く存在する。

祥龍寺は店主よねが再建し、辰巳会の供養塔、金子直吉、柳田富士松、西川文蔵の顕彰碑がある。また高畑誠一をはじめ鈴木商店関係者の菩提寺ともなっている。追谷墓園には鈴木商店関係者が眠っており、鈴木商店の家族的経営を感じさせる。

神戸女子商業学校(現・市立神港橘高等学校の前身)は鈴木よねの援助により設立され、神戸高商(現・神戸大学)は高畑誠一・永井幸太郎ら学卒派とよばれた卒業生を大量に輩出した名門校である。

神戸製鋼所創業の地・脇浜工場は閉鎖され、主力の鉄鋼事業は、高砂、灘浜に移り、かつての創業地に近い脇浜海岸通に新たな本社社屋が建設された。さらに神戸から六甲・御影の沿線には鈴木薄荷、日本精化(旧・日本樟脳)、日本テルペン(旧・再製樟脳)、太陽鉱工など鈴木商店ゆかりの企業がある。

また、灘区岩屋の敏馬(みぬめ)神社に隣接して「東レザー敏馬ゴム工場」が操業していた。この工場は、日沙商会の経営となり、その後その一角に「日本輪業」が独立し、現在のニチリンに繋がる。
さらにファイバー部門は「東洋ファイバー」となった。

金子直吉は生涯仮住まいであり、決して豪邸などは建てなかった。そして米騒動や破綻などの難局を経て、住まいも転々とした。金子直吉が住んでいた須磨の邸宅の跡は、現在太陽鉱工の社宅となっている。楠木正成ゆかりの湊川公園は、米騒動時に群集が最初に集まり気勢をあげ、ここから鈴木商店本店まで行進し、焼き打ちをした。

郊外の有馬温泉は、金子直吉が晩年足繁く通ったといわれ、馴染みの宿「銀水荘・兆楽」には、今でも金子の胸像が保存されているという。

わが街――鈴木商店とその時代

  • 明治11年の神戸の風景
  • 明治40年の神戸港
  • 明治37年頃の神戸諏訪山

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